太閤忌と戦国武将のお灸
今日、8月18日は旧暦の「太閤忌」です。
1598年(慶長3年)、安土桃山時代の武将豊臣秀吉の命日を記念した日です。
「太閤」とは摂政または太政大臣の尊敬語。
関白を息子に譲った人のことをさしますが、秀吉は好んで太閤と称したので、秀吉に敬意を称して使われています。
京都市東山区にある秀吉を祀る豊国神社(とよくにじんじゃ)では、新暦にあたる9月18日・19日に例祭が行われます。
佐賀県立名護屋城博物館所蔵の秀吉の肖像画(写真上)です。秀吉が亡くなった年齢は62歳(数え年)です。
戦国武将の寿命は、数え年で上杉謙信が49歳、加藤清正は50歳、武田信玄が53歳。この時代では50歳前後が平均寿命だったようです。
戦国時代といえば戦(いくさ)の連続。そんな中で武将たちは健康にはとても気を遣っていました。
とりわけ戦国武将は健康のためにお灸を重用していました。特に秀吉はお灸を愛用していました。
残されている手紙の中で、側室の淀君に送った手紙にお灸の事が書かれています。
体調の良くなかった淀君が「やいと」をして体調が良くなったことを知ります。「やいと」はお灸の事でおもに関西方面で使われている言葉です。秀吉は苦手な「やいと」を我慢して据えた淀君をほめたたえています。
また、別の側室が目の病気をわずらったときも温泉とお灸をすすめています。家族の健康に気配りをする秀吉の様子が伝わってきます。
また前田利家とは互いにお灸をすえ合うこともあった仲でした。利家は秀吉が亡くなった8か月後に同じく62歳で亡くなっています。
戦いの絶えない戦国時代にお灸が広まったのは、秀吉の主君であった織田信長によるものだといわれています。
1576年(天正4年)、信長はポルトガル人から輸入してポルトガル人に命じて、お灸の材料であるよもぎを滋賀県の伊吹山(写真上)に植え付けたといいます。
その後、お灸の産地として有名になった伊吹山は、薬草山として知られるようになり、もぐさをお米の代わりに年貢として納めていたといいます。
同じく戦国武将では、織田信長に滅ぼされた松永久秀が自害する前に「脳天(百会)は中風(脳卒中)の神灸なれば、当分その病を防ぎ、快く自害するものである」といって百会のツボに灸をしたとされています。
では、まだまだ熱い日が続くこの夏にオススメのツボを紹介します。
不眠や疲労回復・むくみ改善に効果のある湧泉、食欲不振に内関、胃をじょうぶにする足三里です。
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