熊井啓記念館と『サンダカン八番娼館 望郷』&『黒部の太陽』

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自宅から歩いて2分程のところに「きぼう」という建物があります。1階は豊科図書館、2階には『熊井啓記念館』があります。

熊井啓氏(1930-2007)は安曇野市豊科(旧南安曇郡豊科町)出身の映画監督です。

熊井監督の妻でエッセイストの熊井明子氏が寄贈された監督の著書の中に豊科のことが書かれています。

「幼少期を過ごした豊科での日々は、図り知れぬ意味を持っている。私の中の豊科は紛れもない忘れえぬ故郷なのである。」(限定私家版『続 池塘春草の夢』)

本のタイトルは朱子の一節「少年老い易く 学成り難し 一寸の光陰 軽んずべからず 未だ覚めず 池塘春草の夢 階前の梧葉 已に秋声」からとったもの。

「池塘(ちとう)春草の夢」(=池のほとりで見るまどろんだ春の夢)は「青春のはかない夢」のことを意味するそうです。

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熊井監督は6年半住んだだけの豊科に故郷を感じていると綴っています。

ハンセン病を題材にした『愛する』(1997年)という作品では、北アルプスの風景や穂高駅、万水川(安曇野市を流れる信濃川水系の河川)などが画面に映し出されています。他にもいくつかの作品に安曇野や信州でのロケが行われています。

記念館には海外の映画祭で受賞したトロフィーや初監督作品の『帝銀事件 死刑囚』(1964年)に関する資料や脚本、ポスター、監督の椅子などが展示されています。

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熊井啓監督の作品を初めて見たのは、故郷を離れ上京して2年目のことです。当時住んでいたアパートのすぐ近くに小さな名画座がありました。

名画座というのは封切された映画の公開が終わった作品や過去に上映された作品を安い値段で見ることができる映画館のことです。

その名画座は当時2本立てで映画代は300円でした。そのころはロードショーで見るお金がなく、その後はこの名画座でたくさんの邦画や外国映画を見ることができました。

そして初めてこの名画座で見たのが『サンダカン八番娼館 望郷』(1974年)でした。その映画の監督が熊井啓という人だということをそのとき初めて知りました。

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サンダカンは東南アジアのマレーシアにある都市です。江戸時代末期から昭和の初期にかけて、若い女性がおもに海外に身を売られ「からゆきさん」と呼ばれて、南方の娼館で働かされていました。

からゆきさんの実態を調べるため天草を訪れた女性史研究家が、偶然天草に住む元からゆきさんのおサキさんと出会い、おサキさんの家で数週間生活を共にするうち、からゆきさんとして波乱に富んだ人生について重い口を開いて語り始めます……。

映画は若き日のおサキさんと晩年のおサキさんと女性史研究家との交流を描いています。

もし、今この映画を再見すれば、年老いて息子や村人からも疎まれ、独りで暮らす晩年のおサキさんの心境に、私は初見の時よりももっとずっと心が揺さぶられるのではないかと思います。

特に鮮明に記憶に残っている映像シーンがあります。おサキさんが十数年ぶりで故郷の天草に帰ってきたときのことです。

おサキさんの仕送りで建てた家にもかかわらず、たった一人の肉親である兄とその妻が、おサキさんの帰郷を喜ばず、迷惑に思っている会話をおサキさんがお風呂場で聞いてしまう場面です。

おサキさんは浴槽の中に頭まで沈めて、髪をふり乱して顔をゆがめます。このシーンは水中で撮影されています。おサキさんの絶望とやり場のない怒りで、もがき苦しむ姿が強烈で、今でも忘れられない映像シーンとなっています。

晩年のおサキさんを田中絹代さん、若き日のおサキさんを高橋洋子さん、女性史研究家を栗原小巻さんが演じています。

この映画に感銘を受けて、すぐに山﨑朋子さんの原作本を購入して読んだことを覚えています。ノンフィクションというジャンルがあることを初めて知った本でもありました。

熊井監督には19本の映画作品があります。私はそのほとんどを名画座や東京国立近代美術館フィルムセンター(現在は国立映画アーカイブ)で見ることができましたが、2本だけ未見の作品があります。その1本が『黒部の太陽』(1968年)です。

『黒部の太陽』は封切られてからリバイバル上映されることが長い間なかったように記憶しています。
今ではDVDも発売されていて見ることはできるのですが、私はこの映画を見るときは大きなスクリーンでぜひ見たいとずっと思ってきました。

そんな希望がかなって、先日、豊科公民館ホールで行われた熊井啓監督作品上映会で『黒部の太陽』を見ることができました。
上映に先立ち熊井作品に6本出演されている俳優の奥田瑛二氏のトークショーがありました。

奥田氏は熊井監督について「社会性を持ったテーマ」で自分の視点を大切に映画を作ることをアドバイスされ、出演作品を通して監督術を吸収したと話されていました。

『黒部の太陽』は大画面で見るととても迫力があり、3時間以上に及ぶ上映時間も長く感じさせない男の世界を描いた、今見ても色あせない重厚な作品でした。

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『熊井啓記念館』は9時~17時まで無料で入館できます(月曜日・祝祭日の翌日・12/28~1/4は休み)。

1階の豊科図書館では、熊井啓監督作品や脚本作品のいくつかを視聴ができます。記念館の詳細はこちらからご覧いただけます。